銀杏はもう色づいて葉とその実を落とし始めていた。丸い実を踏みつぶした匂いが立ち込めるその場所はすっかり秋めいて肌寒さは冬の気配さえ感じさせ、うっかり薄着で出てきてしまった彼の体を冷やす。すぐに部屋に戻るからと思って買った缶コーヒーはプルタブも開けられないまますっかり冷めてしまって、土で汚れた手の中だ。いつもは苦いからといってコーヒーなど飲まないのに、しえみの手前、見栄を張って思わず買ってしまったものだから、どうでもいいといえばどうでもよかったけれど。
しえみは普段通りの着物姿で彼の前に背を向けて座り、同じように土で汚れた手を合わせている。彼女の前には先刻こしらえたばかりの小さな土の山があり、葉をつけたまま落ちていた銀杏の枝が一本そこに差してあった。どこから来たのかもわからない子猫の墓のつもりであった。自動販売機に二人で出掛けたところしえみが子猫の死体を見つけ、今まで二人で墓を掘っていたのである。死骸を見つけた途端駆け出して制止も聞かず墓を掘りだしたしえみは、背中を丸めて寒さに耐えるかのようにじっと手を合わせて動かない。泣いているのかとも思ったが肩は震えていなかった。泣いている彼女のそばにいることが往々にしてあるので、すぐに泣いているのだと思ってしまうのかもしれなかった。思い返せば土を掘っていた時の彼女はとても芯の強い瞳をしていたというのに。
猫は、全身雪のように真っ白な、野良猫にしては綺麗な子猫だった。体の上にはらりと数枚、斑のように黄色い銀杏の葉が落ちていて、なにか手向けの花のようにさえ見えた。寒さに凍えて死んでしまったのであろうか、それとも空腹が過ぎて動けなくなってしまったのであろうか、理由など一つとして分からなかったけれど、彼はその猫がとても美しいということだけはなんとなくはっきり分かった。まるで昼寝をしているかのような静かな死にざまだったのである。それがとても不思議であった。彼の知っている死は美しさとは到底無縁である。死とは陰惨で、強烈で、なまぬるい。猫の死骸は美しく、安らかで、つめたかった。
手を合わせてずっと黙りこんでいたしえみは、おもむろにゆっくりと立ち上がり、ふうと息をついて彼を振り返った。「成仏、できるよね」 子猫を埋める前しえみが「かわいそう」と言ったきり、お互い何の会話もなさずにいたせいで、彼は彼女の声を久しぶりに聞いたような気がした。その声が少し震えていたのは、きっと寒さのせいなのに、泣き出しそうなのかと彼はとっさに勘違いをして言った。「泣くなよ」
「泣いてないよ」しえみは笑って言った。「でもちょっと思い出しちゃった」すっと彼女は目を伏せて、土で汚れた、猫を埋めた手を握り、またゆっくりと息を吐く。彼女の頭の中で生きた祖母の姿が浮かんでいる様を彼は容易に想像できた。死んだものを見て死を思い出すのは自然なことなのだと思う。だけど彼女の祖母の死に顔は、猫のように美しかったのだろうか。安らかだったのだろうか。だからしえみは猫のことをこんなに真剣に考えるのだろうか。
手を合わせていた時のように目を伏せたまま黙り込んでしまったしえみが、今度こそ泣き出してしまうのではないかと思い、彼はそっとしえみの頭に指先で触れた。しえみがその感触にそっと目を開けて彼を見る。少しだけ気弱な瞳が、それでも涙には濡れずに、彼を認めて秋の夕暮れのように和らいだ。どきりとして彼は手をひっこめた。彼女はときどきこんなふうに心臓をつつく。
「…へいきか?」
「うん、へいき。燐は?」
彼は眼を丸めた。名前を呼ばれて、違う誰かに同じように名前を呼ばれたことを鮮烈に思い出した。
「なんで、俺に聞くんだよ」
「え、うーん、なんとなくだけど」
「へーきだよ。あったりまえじゃん」
「そっか。うん、そうだよね」
えへへ、としえみは笑って、いつの間に拾い上げたのやら、黄色い銀杏の葉をひとつ胸元から取り出して、燐の頭に手を伸ばした。急に手を近付けられて体が硬直したすきに、そっと髪の間にその葉を差しこまれる。にこにこと満足そうに笑うしえみに気恥ずかしさが倍増し、なんなんだよこれ、と言って取ろうとした。さっきしえみの頭に触れた指で、今度は自分の頭に触れた。
「でも、燐は、ときどき、泣きそうな顔するんだもん」
指が頭に触れたはずみで、はらりと銀杏の葉が落ちた。ひらひらと舞って、冷たい風に乗り、子猫の墓の上へ落ち着く。銀杏の木はもう色づいて葉を落とし始めている。手の中の冷たい缶コーヒーは、いつの間にか手のぬくもりで、生ぬるくなっているような気がした。