甘い缶コーヒーの匂いで世界は満たされる。揺れるバスのくらい光をあかるくさせる。運ばれて行くのはかなしい私だ。冷たい窓ガラスに吐息が露となって夜の街を濁らせた。軽い箱はあなたの指が支配する。かちこちと電波にのせることばを選ぶ。不器用なダウンジャケットが濁った暗闇に座っている。小首をかしげる癖を教える。それは冬の亡霊だ。私だけの幻だった。
「今日、疲れたでしょ」
「うん」
「へいき?」
「へいきじゃない」
「ほんと?」
「うそ、へいき」
「なんだよ」
消えそうなあなたが困った顔をするのが楽しくて私は笑った。窓ガラスに映った私の顔をなぞると震える露がつうと流れた。するとあなたも手元の玩具に向けて柔らかく笑ってバスは停止する。聞いたことのある町の名前は幻をきらめかせてあかるい光は影に遮られた。現実は長い足で、明るい声音で、世界を出ていくのだ。
「おれここで降りる、じゃあね」
「うん」
「気ぃつけて」
「うん」
私のことばを耳だけで聞いてその人は行ってしまう。バスは身震いとともに走り出す。ダウンジャケットは足早にネオンの中に消えていく。運ばれて行くのはかなしい私だ。世界は彼女が支配する。苦い缶コーヒーの匂いに満たされる。私はくらい光の中でいつもと違う町で降りたその人に手を振った。その人は振り返らない。小首を傾げてみると窓ガラスの露がこぼれた。その人は振り返らない、ふと恋しくなった人がいるから。
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さむくなってきましたね。
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