幼馴染の話。
落ちる夢をよく見た。高い場所から奈落へ落ちる夢だ。なぜ、どこから落ちるのか幸は覚えていない。ただ落ちた瞬間に冷たいものが背筋を這い上がるような感覚に思わず背中を丸めると同時、目が覚めるのだった。そうしてから幸は自分の体がしっかりと地についていることに安堵する。彼女はこのときも、畳の硬さを確かめてから見開いた目をゆっくり閉じた。ああ、わたしの体はまだ壊れてはいない。ただこれは安堵ではないと彼女には分かっていた。
「どうしたの」
頭の上から宗太の声がした。幸は泣いていた。瞬きして震えた睫毛の先から、若葉を伝う夜露のように雫が落ちた。もう一度開いた目でとらえた視界は青く暗い。月が出ているのだと幸は思った。ついこんなところで寝てしまっていたのを見かねて、宗太はずっとついていてくれたと見える。
「なんでもない、夢を見ただけ」
ゆっくりと起き上がりながら目元を拭うと体にかかっていた上着がずり落ちた。開け放たれた障子戸の向こうの中庭から虫の鳴き声がしていた。青白い光に頬を染めた宗太は、幸の顔を覗き込んで、そっと彼女の額に触れた。いつのまにか骨ばってしまった、長い男の指だ。彼はその指で幸の額や肩や腕に触れるのが好きらしかった。幸はその度に一糸まとわぬ姿を見られたような恥ずかしさを覚えてするりと逃げるが、今日はなにやら彼にそうさせてみたいと感じて、微動だにせずにいることにした。宗太は幸の乱れた前髪をそっとかき分けた。
「海みたいね」
「海?」
「外。青くて、暗くて、海の底みたい」
「ああ、」宗太は幸の示した中庭のほうを振り返って頷いた。「そうかな、そうかもしれない」
幸は自分の目が涙を流したせいで若干痛いことに気づいた。なぜ自分は泣いていたのだろう、何が悲しくて、何が苦しくて?わからない。彼女に分かるのは夢の中で自分がどこかから落ちた、ということだけであった。しかし目に宿る、渇いた喉に感じるような痛みを思うと、幸は夢の中の出来事がなんとなく分かるような気もするのであった。それは昨日、現で流した涙のあとと似ていた。自分の前で正座をし、いつもの厳格な顔を和らげている父の顔が思い出された。
宗太の長い指は、前髪をかき分けて額にちょんと触れたまま、撫でるでもなく爪を立てるでもなく、ただそこに静止している。幸はその指先の冷たさが温くなって自分の体温と同化するのを感じていた。中庭を振り返っていた宗太はまた幸に目を戻していたが、巣立ちに躊躇う雛鳥のように、少しだけ苦しそうな表情で彼女を見つめるばかりである。幸はこの奇妙な状態に段々ともどかしくなってきた。いっそ、もっと触れてくれたらいいのだ。額ではなく頬を。目尻を。唇を。焼け焦げるような思いをしたくないから、今までずっと、するりと逃げてきたのに。
「…髪が、」宗太は静かに言った。「のびたんだな」
「ええ、だいぶ」
「前は切っていたのに?」
宗太は幸の額からそっと指を離して彼女の黒髪を一房すくいあげた。幸はくすぐったい気持ちと苦い気持ちが入り交ざっていくのを自覚しながら息を吐く。「髪を結うためよ」
「結う?…」きょとんとした宗太が、幸の言葉を繰り返して、そしてハッとなって言葉を失った。髪を弄んでいた手を彼はすとんと落とし、切れ長の目をこれでもかと見開いて幸を見つめ、息を止めた。幸は、自分が近々結婚することを彼が悟ったのだとわかった。幸の父が婚礼の際は髪を長くして綺麗に結ってもらえと彼女に言っていたのを、宗太は知っている。幼いころからの話だ。母に髪を切ってもらう幸の横でそんなことばかり言っている父を、宗太は庭で遊びながら見ていた。ずっと見ていた。
宗太はようやっと我に返ったと見えて、すっと目を落ち着かせ、何か歯噛みするような表情を一瞬見せてから、「そうか」と一言だけ呟いた。青白い宗太を見て、彼には青が似合うと幸は思う。海の色が似合う。水の色が似合う。哀愁の色が似合う。
「落ちる夢を見たのよ」
しばしの沈黙の後、柔らかい声で幸が言うと、宗太は「へえ」と頷いた。「じゃあ、落ちてきたのかもしれないな」
「どこへ?」
「海だよ。海の底みたいだと言ったろう?」
ああ。
幸は乾いた目が潤うのを止められなかった。髪を切り終わった幸と中庭の池のほとりに並んで座って、こんな髪の結い方が好きだと言った宗太を思い出した。子供ながらそんな彼を直視できず水面に映る彼の顔しか記憶になかった。水の色の。海の色の。
私は落ちてきたのだわ。青い水の中へ。自分で。
きっと溺れて死にたかったのだとはっきり胸中で言葉にすると、幸はたまらなくなって、宗太の骨ばった愛しい指を握った。ふれてほしいと、思った。
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