ちょい長め。
たぶん僕は神様になったのだ。彼はようやっと自覚した。いや、実際は以前からあったそれを言葉にすることで確固たるものにしたのだった。彼にとってそれ以外の可能性は皆無だった。ただ彼自身がその事実を受け入れることに異常なまでの、幼い意地とまで見えるほどの拒絶を示していただけなのだ。だがそれもここまでのようである。彼は瞬きするたびに瞼の裏に現れる悪魔の微笑みに観念した。悩むのはもうたくさんだった。つきまとうこの苦しみから一時でも解放されて明るい光をただそのままに明るいと思いたかった。
彼は夕闇に食われた街をとぼとぼと歩いていた。ひどい頭痛がしたがいくらか昼間よりはましである。立ち並ぶ居酒屋はぽつぽつと明かりをつけはじめ、所々で気の早い客の笑い声が聞こえてきていた。通りには軽い買い物かごを下げて家へ急ぐ貧しい身なりの娘や今日の稼ぎを手の平で数える煙突掃除の少年、工具を振り回すようにして歩く太った男たち、見るからに派手なスカートと靴を身につけた化粧の濃い女、ゆったりと走る馬車などがひっきりなしに彼のそばを通り過ぎた。彼は途端にそれらに対し言いようのないやつあたりのような怒りを覚えた。この景色の中でのんびりした顔をしている誰かを今すぐ怒鳴りつけてやりたい気分になった。人じゃなくたって構わない―――広い屋敷の中で赤いリボンをつけぬくぬくと暮らす肥えた猫でも、頭上で相も変わらず鳴き続ける烏でも、なんでもいい。尖った言葉を鼻先に突きつけて甘えた瞳を凍らせてみたい。どんなに愉快なことだろう…
(なにを考えているんだ)
彼は我に返って邪念を振り払うように頭を振った。頭ががんがんと波打つように痛い。なぜこんな気持ちになったのか自分でも理解しがたかった。これっぽっちも知らないものを、しかも何の罪もないものを、理由もなく傷つけたいなどとは!こんなことは今までの彼の人生の中では考えられないことだった。彼はとにかく周りのもの全てを愛するように心がけてきたのである。彼を知るものも知らないものも、好むものも嫌うものも、全てあたたかい心でもって愛するようにと彼は自身に言い聞かせ続けてきた。人とはそうでなくてはならぬと固く信じて疑わなかった。そんな自分が周りを傷つけてそれを愉しみたいという残虐な感情を覚えたのだ。
思えば今だけではない。一昨日、川に落ちたところを助けてやった少女の父親が自分の足もとに膝をついて感謝する姿に感じたのは、感謝された照れくささと嬉しさではなくて、ひれ伏す者を見下ろす優越感だったのだ。昨日、盗みを告白したジャンを許すことができなかったのは、自分が全能の神になったという傲慢が既に根付いていたからなのだ。
(僕は神ではなくて悪魔になってしまったんじゃないだろうか)
彼はそう考えて身震いした。自分の心に悪魔が棲みついてしまったのかもしれぬと思うと恐ろしくてたまらなかった。だが心が悪魔になるだけならまだいい。厄介なのは、その邪な心で思う望みを実際に叶える力までもが彼の身中に潜んでいるということだった。彼自身、その力が如何ほどのものなのかはまだ分からなかったが、とにかく全てを支配しうる恐ろしい力だという事実だけは明白であった。その力を、悪魔の心で使ったらいったいどうなってしまうのだろう?ああ、どうして僕にはこんな力があるのだ?神とはこうして生まれるものなのだろうか―――この悪魔の心に打ち勝った者が真の神となり得るのであろうか!そして世界を統べるのであろうか。彼は気が滅入るのを痛いくらいに感じた。特別な存在になったことを認めるまでにさえこんなに気力を使い果たしているのに、世界を統べるなどとは想像もつかなかった。自分はきっと世界を統べる悪魔になってしまう。
ふと彼は悪魔のような支配者と考えて父を連想した。細い眼、尖った鼻、真一文字の唇、痩せた体、冷たい鉄のような声、いつも手に持った剣のような杖。彼は幼い時分見た、容赦なく人を切り捨てる父の姿が鮮やかなまでに蘇るのを感じた。考えれば考えるほど父王は支配者の座についた悪魔に思えた。実際、彼は父のことを悪魔の化身だと信じていたころがある。庭園で花を楽しんでいたところ「女々しい」と一喝され殴られたこと、母の父親、つまり祖父に謀反の疑いをかけ祖父を処刑し母を離縁したこと、毎日のように戦争のことばかりを話していたこと。色々な記憶が一時的に意識の中で浮上し、彼は父の鋭利で冷たい瞳に射られたときの恐怖を思い出した。あのとき、その瞳の冷酷さに、彼の本能は死さえも覚悟した。そうだ、あの男こそ悪魔である。父だと認めるのも忌々しい、彼が世界で唯一憎む存在である。
(だめだ、負けてはだめだ。父上と同じになってはだめだ。だから城を出たんじゃないか)
脳裏に浮かび上がった父王の虚像を掻き消すようにぎゅっと目を瞑り、彼は顔をあげた。そして、やはり心を悪魔に食われることは断じて許せないと自分を奮い立たせ、これまで通り、温かい心を保ち続けるよう決心する。目を開けた先の通りでは、先刻と同じように様々な人がせわしく行き交っていた。誰一人として彼に注意を向けるものはなく、あっても通り過ぎるとき一瞥をくれる程度であったが、この人々を悪魔から守るのが自分の役目だと思うと、彼はとても勇気付けられ、また、見知らぬ彼らがいっそう愛しくなるように思われた。彼はそのことで、まだ心の中の悪魔は子供だといくらか安堵した。彼はそのまま夕闇の街の中を先刻よりはしっかりした足取りで進んでいった。
空はいよいよワインを飲みほして黒くなりかけていた。彼は人通りの多い界隈を抜けて静かな橋へたどり着き、しばらくその真中で川面を眺めることにした。この街に住むようになってからというもの、ここは彼が空想に耽る時や悲しみを堪えたい時に訪れる秘密の場所だった。涼しい風がほどよい強さで首元を通り抜ける。水面はきらきらと揺れており、川沿いの家はつつましいがそれ故に温かな光を灯し、静寂の中の平穏を見せていた。それはいつ見ても美しい情景であった。僕がもし本当にこの力を有効に使えるとしたら、この平穏はもっと遠くまで広がっていくのではなかろうか。平穏を広げるなどということは到底あの父にはできまい!彼はそう思うと陸地を遠眼鏡でとらえた航海者のようにわくわくとするのだった。あの通りを行く人々も、この川沿いに住む人々も、みなを幸せにする力が自分にあるのである―――しかも恐怖を用いずに!
彼はとうとう声をあげて笑おうとした。だが次の瞬間、突然吹雪に見舞われたかのように凍りついてしまった。いや実際そうであると言っても過言ではないかもしれない。ぞっとするほど甘く、それでいて冷たい声が背中を襲ったのだった。
「こんばんは」
少女と思しき声だった。彼はその何もかも知った風な口調に鳥肌が立った。
「悪魔になった気分はどうです?王子様」
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なんか設定がルルーシュみたくなった。
愚かな無邪気さは子供の特権
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